仮面福祉会

できることを切り売りしています

不幸は不幸、幸いは幸い

元旦を迎えた。
今年は兄弟が帰ってこなかったので、朝起きてくるのを待つ必要もなく嬉しい。朝おせち料理を重箱につめるスタイルで、毎年のことだがどこに何を収めるのか正解がわからない。かまぼこと伊達巻の間にできた微妙な隙間をどうしたものかと。
儀式として屠蘇も、酒に弱い父と私にかかっては本当に舐める程度で一生なくならない。一人酒に強い母は飲めないということが全く理解できず、悪意なくアルハラをしてくるので、酒を飲む飲まないのコミュニケーションが成立しない。
贅沢を言いながら贅沢な正月料理を食べて毎年恒例の罪悪感にかられる。

昼になり、電車で行きつけの神社に向かう。
神社向かいの駐車場までずらずらと人が並んでいたが、警備の人が体系だって誘導してくれるのでずんずん進んでいく。それがわかっているから列も甘んじて受け入れられるが、待てない性分の父は目を離したスキに先に行ってしまう。そんなに急いでどうするのかと思うが、あちらにしてみたら、何をもたもたしてるんだなんだろう。
本殿に近付くと、大きな辰の絵が左右に掲げられているのが見えてきた。一つは雲から覗く絵で、体のほとんどが省略されていて斬新、と思う。あと、龍の絵は大体達磨さんのような顔をしている。
境内には数々の出店があり賑わっている。職場近くに屋台のラーメン屋を出している人が、年始はテキ屋手伝いのバイトをすると聞いていたので、働く人々の生活に思いを馳せる。コロナ禍でなくなって本当に良かった。

それから最寄りの駅で降りて近くの神社にはしごする。公式の暇つぶしである。
帰り道ぼちぼち歩いていたら、母のことを知っている近所の人が次々と声をかけてくれる。これが地元かと感心するし、フィクションをやっているような気がして面白い。自分の知り合いじゃないんだけど。

帰宅してどうしても眠く、半分横になっていたら、揺れた。遠くで大きい地震があったときの揺れ方だ。テレビをつけると津波の情報で埋め尽くされ、嫌でも311のことを思い出す。定点カメラに映る光景には全く人気がなく、これは現実だとしても多分「ここ」ではない、と察する。しかし提供される情報以上に得ることは難しいし、やたらと集めて不安になってもしようがないことは、過去から学んだことだ。
冬の日が短いので次第に辺りが暗くなり、地震速報は絶え間なくあり、どこかで怖い思いをしている人のことを片隅に思いながら、そっと情報から離れた。

夜、兄が帰ってきてお節の続きを食べる。兄は大抵機嫌の良い人なので、助かる。

年が明けたというのに未だに転居のことを両親に言い出せていない。これまで自身がしてきた選択が全部ダメなほうだった気がしている。夕方変な時間に寝てしまったので全然眠くならない。諦めて本を読み始めた。