仮面福祉会

できることを切り売りしています

悲しさをさめざめと表されても所詮

週半ばの祝日ほど純粋に嬉しいものは少ない。

起きて焼き芋を食べてまだ寝て起きて、出かけようとした所で洗濯機の中に搾られた状態の衣類が入っているのに気付く。台所の流しも散らかったままだ。多分、私がいない平日は毎日これで、つまり休日たまたま行き合った私が焦る必要はないのだけど、知ってしまったからには看過できない。

洗濯かごを抱えてリビングに飛び込むと、父がいた。おまえ…と思うが、いつもどおりの振る舞いをぽっと出の私が意見するのはお門違いだ。勝手にやっていることだと改めて自戒し、洗濯物を干し、洗い物を片付けてから家を出た。

 

渋谷辺りのかき氷を算段してうまいこと入る。そこから下北沢まで歩く途中、見覚えのある蕎麦屋の暖簾が目に入り、おや、と辺りを見回した。十年前に働いていた職場の直ぐ側じゃないか。高級住宅街で、周りにコンビニと蕎麦屋しかなかった、その蕎麦屋だ。こんな場所もう来る機会はないと思っていたのに、思いがけないこともある。

少し歩くとおしゃれなカフェがあり、外国の人がたくさん集っていた。昔からあったのを知らなかっただけかもしれないが、蕎麦屋の変わらなさを考えると、多分最近の変化だろう。

 

舞台を見るため着いた下北沢は、いか祭りで賑わっていた。なに、いか祭りって。

見たのは別役実の不条理劇。例えば砂の女のような、噛み合わない理不尽が畳み掛け飲み込まれ屈して順応して死ぬ、みたいな内容や、舞台の内省的なところは普通に苦手でイライラしてしまう。それがために別役実も多分に警戒していたのだけど、今回見たものは要素が踊り歌うから騒ぎの中で推し進められる演出で、わーっとなっている間に受け入れられた。悲しい苦しいことがポップに表されるのが、私は好きだ。

といいつつ、誰がどういう役割だったのかいまいち捉えきらず、原型をどの程度留めているのか気になり、帰る道道図書館の蔵書を検索した。

 

出演者がSNSで、劇場の楽屋が実家みたいで落ち着く、と発しているのを見た。実家、落ち着く。は、定型文に近いが、どう考えても私は実家で落ち着いていない。いやまぁ、他人の家やホテルなんかよりは安心感があるが、自分の部屋ですら、いつも何か気にしている。そんな自分の落ち着く場所とは、と考えながらふと目に入った、広い道の交差点の真ん中。あそこじゃないかと思う。絶対に車が来ないなら、あの場所にテントを張って寝るのは、さぞかし清々しいだろう。