仮面福祉会

できることを切り売りしています

剥き出しになるおれたち

暑い日。2年前に亡くなった伯父の3回忌に出かける。

現代にしてはまだ若く、まさか死なんだろうと周りも本人も思っていて、更に家庭内のごたごたがあり、こじれにこじれていた法事である。ごたごたの結果、従兄が全てを請け負い進めてきたのを聞いていたから、ようやくここまで漕ぎ着けたのが、本当にご苦労さまなことだ。

今回は本当に、親世代の人々の大人気なさが目白押しで、子どもを前にしてどうしてそんな振る舞いができるのかよと瞠目したものである。ただ、我々世代はもう紛うことなき大人だし、年齢や役割などは周りからの目安でしかないから、親だからといって親らしさを強いれない。自分はいつまでも自分で、人生の主役で最優先されるものだ。いや、でも、やっぱり、果たす責任のある役割があると思うよ。

 

少し滑舌の悪い、若いお坊さんがお経を読む間にお焼香をする。ここで私は毎回、喪主の方に礼、その他の人に礼をしてから焼香、また礼。という手順を、全員が前に人にならってやることに、落ち着かなさを感じて気が気でなくなる。焼香をする、という儀式は良いとして、その他の人々に頭を下げる意味が全然わからないし、そこでコミュニケーションが生まれるのにすごく抵抗感がある。自身の番が来て、真っ直ぐ焼香台に行き帰りたい気持ちがめちゃめちゃに高まったが、大人だぞ、と我慢して堪えた。多分ちょっと様子がおかしかったと思う。

お経が終わると法話を聞く時間。仏教らしいご縁の話で、シンプルに参列者たちも感じ入っている。その間私は、お坊さんという職業から形成される人格のことをずっと考えていた。自身の(じゃなくて釈迦のだが)話を人々が神妙に聞いてくれるのはさぞ気持ちが良かろう。それが当たり前のようにある日々でまともでいるには、余程の修行が必要かと思われる。

 

会食が始まってしまうと、何もなかったかのように和やかで心がたたらを踏む。久しぶりの人々の間で人見知りに近い緊張感はあったが、次第に慣れて親戚らしい会話をする。一番懸念されていた、伯父の妻である義理の伯母は、お銚子を2本空け、元の印象どおり無邪気に見えた。

 

昼過ぎに解散し、喪服でどこにも行けないので帰宅。土曜の学校帰りのようで、意味もなく感傷的な心持ちになる。

 

そういえば兄が少し痩せて、弟が太っていた。