仮面福祉会

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愛をどうする

通りがかりに補聴器の店があるせいで、「聴こえ」という言葉が最近気になる。

「好き」は動詞だが、LOVEは「愛」を「する」と訳している。これが日本語によるLOVEの落ちなさを現している。と解釈できるようなことを言っていたのはドナルドキーンだったか。多分に個人の意見であるが、そのとおりであるなと感じたのでちょくちょく思い出す。

そして「聴こえ」は、動詞が名詞になったパターンだ。鼻の機能で言うところの「におい」に当たるだろうが、カテゴリが違う。「におい方」「見え方」のカテゴリであろうが、じゃあ「聴こえ方」でいいかというと、よくなさそう。眼でいうと「見え」じゃ「見栄」で、「視界」か近いがここで急に漢文の登場とは逆流だ。

「愛」は古来より「する」だけど、五感は感覚と表現が実感をもって日々ブラッシュアップされてくのさすがという感じがする。

 

ところで3月が末日でとても驚いた。

午前から退職者挨拶をオンラインで聞き、餞別をあげたりもらったりする様子を雑に眺めた。自身にとっては今日と明日がただの連続でしかないから、実感のなさと現実のギャップがすごい。現実には、明日から新しい年度が始まってしまい、物理的にも年度末までよーいドン状態なのだ。恐ろしいしめんどうくさい。めんどうくさいが気合いを入れて真面目に取り組まねば。頑張ろ…。

 

送別などしていたら帰りが遅くなってしまった。雨の中帰り年度を終える。日付が変わりタイムラインに変なものが現れはじめ、ああそういえば1日ってそういう日だったな毎年忘れていてげんなりする。