仮面福祉会

できることを切り売りしています

袈裟は憎いが坊主は憎くない

時々関係者回りから舞台公演のお誘いがあるが、どうも行く気になれず返事もできず既読スルーをしてそれもまたひっかかっている。見に行けばそれなりに楽しいが、微妙に遠い会場だったりすると「それなり」にお金と時間を費やす気になれない。見え隠れする「義務感」の存在に気付いていてどう付き合おうか考えている。確かなのは、関係を切りたくはないから返事をしなければということだ。
いっぽう、カメラマンである昔なじみの写真が、ラグビーリーグワンの公式として流れてきて、すわ、となる。これはひと言おめでとうと言いたい!と思ったが、SNSのDMしか手段を知らないような関係性なので、違うか…と書きかけたテキストを消した。陰ながら応援、を貫くべきと心得たり。来年の年賀状ででもお祝いしよう。

五輪が終わり、記事をまとめた雑誌のひとつでも買おうかと見繕うも、大体表紙が羽生なのが納得できなくて買えない。彼が表紙だと売れる、ということに尽きるのだろうが、彼の経済効果と影響力がどの選手より強いような国に籍があることがいっそ辛い。
というに近いことを父にぼやくと、体操の内村も同じじゃないかと言われた。確かに、シチュエーション的に似たようなのは他にもいるが、この件だけ私は何をそんなに嫌がっているのかしら。言動と行動の芝居がかりぶりが、私の理想のスポーツ選手像と違いすぎていることが1つ。それから、その芝居の登場人物になりたがっている人々の群が恐ろしいのが1つ。そして、それがマジョリティらしく、相対的に自分の支持するものが軽んじられる悔しさがある。あと、嫌なのに事故的に触れさせられがちだから余計に嫌になるいつものパターン。
嫌、を掘り下げることに、何か意味があるだろうか。嫌だがそれは自分の中で起こってることだ、と認めると、しょうもないことだとわかり、その辺りに意味がある。多分。