仮面福祉会

できることを切り売りしています

私の外は知らない

おむすびの番組で、高菜ごはんおむすびをやっていた。高菜農家が手作業で葉を摘んでいて、いくらぐらいで売れるんだろうなと、すぐに労力を対価で考えてしまう。高菜漬を作るのも手間だが、食料に困ったときの保存食になり得るだろうか。自分が手を動かすとしたら、嗜好品ではなくて、必要とされるものを作りたいと思う。

考えてみれば、非営利団体にいるのも、時々ボランティアをしたりするのも、同じマインドから発している。あってもなくても良いものを売るために、価値を付加する自信がないのだ。そして今の仕事をしていても安泰ではない。私がやらなかったら誰かがもっとうまいことやるだろうし、かけ換えのありようが募ると生き延びるのも難しそうに思われる。

 

職場へドライバーを忘れずに持ってゆき、ハブに磁石を取り付けた。箱を開けたら磁石はもう一つ割れてしまっていて、欠陥くさい。足元に込み合うケーブルは相変わらず不快だが、来週なんとかしよう。

日々過ごす場所を、自分にとってなるたけ気持ち良くするために根気を費やしている。

 

来週2日間夏休みを取る同僚が、忙しいときにすみませんと言いつつ帰っていった。有給を消化しないがちのあの人はむしろ、自分がいてもいなくても同じ、ということをそろそろ思い知れないものか。

 

歌舞伎座公演で、幸四郎が休演になり勘九郎が代役をやると知り、すわ、と調べた。そして代役が、土蜘蛛でなく一本刀の方だとわかり、すっと閉じた。考えてみれば最もなのだが、踊りを、勘九郎の踊りを見せてくれ。

私のその様を見ていた母が、幸四郎さんお大事にの一言ぐらいないのかと笑っていた。残念ながら聴衆というのは身勝手なものですよと正当化しかけたが、根本的に、母は他人を心配できる人で、私は人を想う能力が足りない人間なのである。

とにかく、私のこの世が、自分にとって心地よいものであってほしい。