仮面福祉会

できることを切り売りしています

付帯効果だけを見る

駅までの細い道の一軒家ゾーンは、ゴミを家の前に出しておくシステムになっている。ひとつの家では、勝手口門の前に置いたゴミ袋に、門の下からにゅっとでたネットが被せられている。その端は門の中で結びつけられているらしく、黄色のネットがいつも、お尻が入らなかった動物みたいになっている。収集所で慣れ切ったネットが小さいだけでもちょっと面白く、今日もあるなとつい目が行ってしまう。

 

チーム内が3人お休みで、何となく暇がない。そんな中、相談したい人が本部に迷い込んできたというので出かける。本部はすぐそこだが横断歩道があり、青信号のときに救急車が来たので2回分待つ。

相談対応で良い顔をして感謝されるのは簡単だ。けど、大抵は簡単には解決できないから、言えることが少ないし、がっかりされることの方が多い。今日は相手が礼を言って帰っていったので不安だ。少し良い顔をしてしまったかもしれない。

 

明日の業務を減らすべく残業し、ぼちぼち帰る。心なし湿度が低く楽だ。商店街のタイ料理屋で、牛すじをレッドカレーで煮込んだのを買って帰る。食べたことのない料理だが、知っているタイ料理の味がする。ココナッツミルクは偉大だ。

 

 

この時期になると増える、戦争絡みのドキュメントをよく見ている。楽しい意味ではないが、興味が深い。70年以上経っても新しい視点があり、底が知れない。戦争の話は見てプレッシャーを感じたり辛くなったりする人も多かろうから、適度な距離感を持って臨めるぐらい私は薄情なんだろう。

 

原爆について最近、今更、変だなと思い当たったのが、使ったらどうなるのか、一番知っているのが被爆地であることだ。どんなものでも、作って使う人たちが最も詳しいのが当然だろう。何で、核を持たない我々が、原爆のことを一生懸命学んで、使う可能性がある人たちが学ばないのか。戦争を終わらせたとか、抑止力になるとか、付帯的で曖昧な効果を唱える前に、物理的に何が起こるか理解しているのか。いくらだってシミュレーションできるだろうに、わかったうえで物を言っているとはとても思えない。

当然では、という視点に立つと、サミットで各国首脳が原爆資料館を訪れるようなことが、喜ばれたり反対されたりする意味がわからない。

同じようなことが、我々が侵略した方の立場で言える。情報をすべらかく、同じ温度で得たい。