仮面福祉会

できることを切り売りしています

一人称の世界

気が進まなくなってしまった舞台のチケットを、譲ろうにも譲れず結局見に行った。

シアタートラムで夏の砂の上。セットの転換がなくずっと居間だけで進む。気が進まなかったのは単純に暗そうだから。そして実際に暗いし、絶望的だし、その絶望が日常に寄り添っていた。周りの人々は善人の顔をしきれず自分を甘やかすことしか考えていなくて、主人公はそれに流され続ける。という構図は、全てが主人公視点であることを示しているのかもしれない。

感想じゃなくて、解釈だなこれは。

水が出ない、というのを聞いて、水道が止まるのは一番最後のはずでは、と考えてしまう自分は病気です(未納で止まったわけではない)。

 

劇場を出て急ぎ大学へ向かう。

学科の同窓会があり、途中からばーんと飛び込んだら、同じ職場の子が受付をしてくれた。話に聞いたことはあったが会うのは初めてで、こんなところで挨拶をするのがおかしい。気を使って卒業2年目の子が声をかけてくれたが、自分の卒業年を告げたら明らかに固まったので笑った。もうちょっと年相応の出で立ちをして行くべきであった。

交流には完全に出遅れたが、主目的はある先生と仕事の話をすることだった。

先生は先生なので話し出すと止まらなくてすごい。私が普段いかに辛抱できず端折って生きているか思い知らされる。聞いているとこれは、講義だな、とわかり、そうやってカテゴリ分けをしないと私は相手の言っていることが処理できない。更に、講義の内容が理解できるかはまた別の話で、もっと頭の良い人間になりたかった。

途中からスタバに移り、結局2時間ぐらい割いてもらってタダどころかごちそうにすらなってしまい、こんなことをして良いのかと恐ろしくて震える。楽しかったです、と言っていただけたのが救いだが、どうにか還元せねばならない。

頑張って働こう。

 

夜、アド街の綾瀬回を見ていた。綾瀬といえば東京武道館で、剣道の試合のために何度も何度も通った場所である。しかしここ数年で、弓道を始めた母のエピソードにすっかり塗り替えられ、自分の思春期の思い出が無きものにされてしまったようで哀しい。知らずうちに、10代の頃の出来事を神聖化しているのだな。そんなこと、知らんがなである。