仮面福祉会

できることを切り売りしています

無理に説明をつけて安心してしまう

あさいち、隣の席の新人さんから、先日はご迷惑おかけしてすみませんでしたとお詫びが入る。休み中気にしていたのだろうか。可哀想なことをした。気にするなと言っても気にするだろうから、もうちょっと丁寧にバックアップしよう。

日々受けるのは主に相談の相談だが、こういう理由だからこうですよと回答しても、伝言される際にその「理由」が省かれがちだなと気付いている。結論があれば良くて「何故」いらない、というのが一般的なのかな。私は何故、から繋げないと結論が頭に入らないほうなので、いつも不思議に思っている。確かに、事象に対応するのに専念するのが端的で確実なのかもしれない。人に説明を求めすぎて、嫌がられている気がする。

 

夜、浅間山荘事件の番組を見る。思考を止め行動の根拠を人に委ね、自らの行為を正当化し諦めていく一連は、今まさに身につまされる。仕方なかった、と考えている自分の判断を見直さなければ、本当に死ぬか人を貶めることに繋がりかねない。

そう戒めもあり、業務評価の最終報告を自省のものとする。最終評価をする部長が私に低い評価をつけるわけがないと、たかをくくっているのもあり、安心して自己評価を下げられるの、甘えてるなと思うけど。

ウクライナのことといい、日本が今何とか住みやすい国であることは、ただの奇跡的だと感じる。文化を成熟させまくってるはずなのに、武力を行使された場合、対抗しうる武力以外の何らかが、ない、という結論になりそうな悲しみと絶望がある。世の中にたくさんいる天才のみなさん、この壁を突破できる発想はないでしょうか。