仮面福祉会

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数年越しで受ける呪詛返し

伊坂幸太郎のSOSの猿というのを読んでいた。なんとなく中途半端で物足らない感じがしたが、登場人物の言っていること、感じていることは、直接的によくわかった。絶対的な悪者はいないのではないかとか、原因を遡ると誰も責められなくなるとか、物事の多面性というのをいつもいつも思い知っているのは福祉をやっているせいだろうか。
小説の中で出てきたのはバリの踊りだったが、歌舞伎舞踊に出てくる善玉悪玉のことを考えた。絶対、というのは一神教の概念である、という司馬遼の話を思い出す。

仕事で中高生からもらったアンケートを集計していると、自由記述で「福祉とか、キモい、ムリ」とか「高齢者なんか助ける必要ない」とか「老人ホームに入れるのは子どもがいる人だけにしてほしい」とか極端なものを時々目にする。10代のころ自分もこういうとこあったなぁと呪詛返しを受けると共に、真の本心ではなかろうと思いつつちょっとだけまともに傷付く。子どもにそう言わせる何かについて心を痛めておりますのと、全か無かで否定される対象に自分がなり得るので悲しい。

介護なんてしたくないという気持ちはわかるし、嫌々でもやらなきゃならないことじゃ全然ない。けど、介護される方がもっと嫌だし、される方は嫌々でもされないと生きていけない。生きているうちは生きなければならない。
高齢者になったら人格がなくなるとでも思っているんだろうか。「子ども」「障害者」「高齢者」とかいう人はこの世に存在しなくて、それぞれが個人であるということを、かくも実感できないのが人間の不思議だと思う。