仮面福祉会

できることを切り売りしています

自ら絶ち切ってばかりいる縁

休んでばかりいる。
引越について片を付けようと決意し電話。家具も何もかもまとめて2t車で運んでもらうことに決まり全ての悩みが解決した。早くそうすれば良かったのは明白なのだが、引越相見積もりのストレスあれ何なんだいね。価格がブレ過ぎで全然掴めない。

昨年参加したダンスワークショップの、今年版の公演を見に行く。昨年見ていた人はこんな心境だったのかな…ということを1年越しで知ったのかもしれない。
全体的にフラストレーションのたまるほうが多い印象。ストーリーがあるわけでもないし、場面ごとの意味がわからないと、みんな何かもぞもぞしてんな、というだけにしか見えなくて結構しんどい。
参加するのは楽しい。けど、今後も続けていくならもう少しなにか、作り込めないものかと無用のことを考えていた。
帰りがけ知った顔をちらほら見かけたが、あちらが自分を覚えていない可能性を考えてしまい声がかけられずすっと帰った。そういうとこである。

昨年のワークショップで書かされたお手紙…?が残っていたのでセルフ公開処刑

江戸と歌舞伎の話をこんこんと聴く。

伝説や民話は「本当」ではないが本当に本当ではないだろうか。物語の生まれた場所に行き、男が駆けて逃げた道、女が死んで埋められた土などを体で知ると、本当でないことがひどくリアルに感じられる。

江戸は有象無象が集まって都市になった。人が多く土地がなく家が狭いとか、火事で壊しては建て直す様とか、東京だなと思い、回帰したところで大差ないんだなと安心する。今より昔が良かったとは、あんまり思いたくないのだ。だが、月に10日も働けば家族を養えたという話については、バカみたいに単純に羨ましかった。

浄土宗のお坊さんの話を聞き、お経を読む。

紀元前から変わらない自我の苦しみについて途方に暮れるとともに、「クリスマスやハロウィンは流行るが、お盆やお彼岸は一向に流行らない」とぼやいていたのがおもしろくてメモした。

お経を読み木魚を叩くときは、お坊さんたちが互いに影響し合い、変調したり補い合ったり、グルーヴを出してやっていると聞く。お経グルーヴ。念仏を唱え盆踊りを踊りぶち上がるお盆がある世界を想像し、なんかいける気がした。

よさこいを踊る。

方々で盛り上がっているよさこいの波に、接触することなく横目で見ながら、あれはいったい何なんだろうと思っていたものが何でもないんだと腑に落ちた。

このたび踊ったよさこいはなんかバカバカしく単純にアゲという感じが楽しかった。たくさんたくさん練習し、衣装や演出道具もこだわり、舞台に立ってどうだと見せつけるようなものも、頭をからっぽにしてみんなでうわーっと踊るようなのも受け入れる、懐が広さがいいなと思った。

阿波踊りを教わる。

踊る阿呆とか言って油断させておいてすげえハードで汗をダラダラかく。徳島を初めほうぼうでこぞって大量の踊り子が闊歩するが、あんなにたくさんの人が進んでこんなことやってる意味が不明だ。解脱したいのか。

文化も伝統も歴史も常識も、作為的に仕組まれたり何十年という単位で入れ替わったりしていることをしみじみ感じる。だから、必死になって守ったり継承していかなくても良いんだなと安心する。廃れたり興ったりするのが自然なのだ。

東京は相変わらず有象無象が集まってできている。

知らないどころか共通の言葉も持たないような「私」と「あなた」がぶつかってグルーヴを生み出しぶち上がりそしてまたかえる。それの繰り返しだ。