仮面福祉会

できることを切り売りしています

寛容さは可逆だろうか

先週ぶりにリアルで会った同僚に、日曜に切った髪のことを言及されて恥ずかしい。例えば、冗談を言って通じなかったのを説明するのに似た羞恥を感じる。しかし思えば、身なりを整える、ということの何が恥ずかしいのか。むしろ気付いてほしいタイプの人もいるが、自分ごときが見た目に拘っていることを、そっとしておいてほしい自意識がある。

先週に続き、別の場所で、地域の人が集まって自由に話す会をやる。
今回は、外国籍の住民と元からいる人々の溝を、どうしたら埋められるかというヒントを得る狙いがあり、福祉施設のオープンスペースを借り、その施設で実習中の外国人学生さんに参加してもらう手はずを整えていた。
しかし来たのは、日本人学生だった。
根本的な前提がひっくり返り、動揺が隠し切れない。学生も何で呼ばれたのかわかっておらず、退屈そうにしているのが申し訳なくて、ファシリテーションが無理矢理になってしまった。

それでも何とか話すうちに、国籍どうこうが関係あるのかどうかわからなくなってくる。そもそも、世間の「こうあるべき」が厳しくなり過ぎているのではという指摘があり、決して珍しい問題提起でないのに、忘れていたなと反省した。我々のスタンスはまず、誰もが自分らしく生きられる社会なのである。法律とか条例とかルールはあるけど、マジョリティが考えることに必ず適応しなければ受け入れられない、という社会には、常に疑念を抱く必要ある。

不味い回しをしたことも含め、まずは自身が知らず指導的になっていたことを、省みる時間で会った。

帰りながら、ニュース解説のポッドキャストを聞く。情報に偏りが出る可能性を意識しつつ、外交も政党も立法も経済も何もかも、日本の仕組みにうんざりする話が畳みかけられる。
政治に関心を持つようになったのは、今の仕事についた、30代に入ってようやっとであったし、関心があると言っても自力で掘り下げ深く考えるほどではないから、うんざりしつつ自身の罪も自覚する。

そうこうしているのも自分が独り身で、仕事が暇で、お金に困っていないからに他ならない。