仮面福祉会

できることを切り売りしています

公と私とコミュニケーション

常駐先の職員さんたちが、毎日せっせと物を仕分け、ゴミに出している。来月に閉館するのに備えてだが、建物を大規模改修するのに、まとめて廃棄してもらえないのかしらと、気配を感じながら落ち着かない。

明日参加する小さな祭りの、資材を搬入しに自転車を走らせた。曇りに油断していたが、急に日差しが強くなったりする。勝手に夏が終わったような気分になっていたから、帽子もサングラスも持っていなくて、迂闊。
逃げるように戻ってくると、壊しかけの何かのダンボールで、自席に戻る通路が塞がれていた。

生産性がないのに疲れだけはして、やれやれと思っているところに、市民さんから電話がかかってくる。午後にやる会のことで、知り合いが誘われていないと聞いた、人を選ぶのはどうかと思うわよ、というご意見であった。
この仕事をやるようになって、自分に声が掛かっていない、ということにちゃんと気分を害し、害したことをちゃんと表明されることが、時々ある。もちろん他意はなく、配慮が足りなかったことを詫びるが、完璧に配慮し切れる自信は全然ない。こちらは公だが相手は私だから、個別の関係性を当然と考えている。そのギャップの扱いが難しいのだ。
ペアの子に内容を報告し、どうしたらいいですかねと相談すると、対応したことに労わりの言葉をかけられて慌てた。こんなことにダメージを受けると思われては、やれる仕事が狭められてしまう。金を貸せ、死ねってことかと言われ続けた日々もあったし、メンタルには何ともない。そうではなくて、単純にいただいたご意見に対してどうすべきか、という議論をしたいだけなのだ。相手のバイアスで伝わりづらくて困る。
コミュニケーションが難し過ぎる。

そういう前段がありつつ、午後に件の会を開く。
市井の人から出る、「公」みたいな顔をした「私」剝き出しの意見が興味深い。自覚のない偏見に対し、それは違う、と否定するのはここでは正しくない。ただ偏りを知り、偏りがある前提で、どうアプローチすべきかを考えるための、貴重な時間である。

会場として借りたカフェで清算をしたら、ほとんど貯まったスタンプカードをくれた。

楽器の練習でスタジオを借りたから、高円寺で降りると、阿波踊りであった。
前夜祭なのか、規模は小さそうだが向かう道でがっつり踊りにかち合ってしまい、あわあわと間を縫って足早に駆け抜けた。高円寺駅を常用していた時にはちゃんと回避していたのに、とんだうっかりである。
うっかりとか言ってしまうが、阿波踊りは、祖父が徳島までひとりで見に行っていたなと思い出す。わざわざ見に行く程、まともに臨めば心動かされるものがあるんだろう。
小学生の女の子が、男踊りの格好をしつつ綺麗にお化粧をしていて、風情のあるバランスが良かった。