仮面福祉会

できることを切り売りしています

フラット化しない生命力

食べたいかき氷が目白押し過ぎなので、来店計画を立てる。他にやるべきことが死ぬほどあるが、欲求を優先して生きている。

 

定期券で行ける駅から40分ばかり歩いて上野へ。途中秋葉原近辺に差し掛かると、たいやき屋さんが交差点ごとに現れ、にぎわい増えてゆく。徒歩だと、日常から観光地へシームレスに至るのが面白い。

かき氷を食べ、来た道でないルートを行きたいから皇居を目指す。今度は本気の秋葉原を通ることになってしまい、波に飲み込まれ面白がっている場合ではなかった。何十年前と変わらず「オタクです」という出で立ちの人がい続けるのに、ちょっと驚く。メジャー化するというのは、普通の人が加わって母数が増えたということだ。広く知れ渡ったからといって、古参の人々がシュッとするわけではない。考えてみれば当たり前のことだ。

皇居に差し掛かると、並木の葉が黄色くきらきらして良い季節だ。東京駅方面からどんどん人が歩いてきて、広い道にぞろぞろと列をなしてゆくのが遠くから見える。乾通り公開のためである。たまたま重なった外国の観光客にとっては、これが常だと記憶されるのだろうか。ある意味ラッキーなのだが、そのラッキーさを知ることはなかろう。

列とは別のレーンを行き、桜田門をくぐって地下鉄の駅に降りた。桜田門はあんなにかっこいいのにいつでも通れるし、出たところの景観も良くて好きだ。

 

この間見た、森から来たカーニバルの戯曲集を借りて読んだ。文字だけにすると淡々として、それだけのことだったのかと拍子抜けするぐらい。

どんなに人を傷付けても、わざとではないからと許される象の気持ちはどんなだろう、とか、踏まれてもっと象に申し訳なく思わせるんだ、というのが、謎ではあるが、わかる。それらが暗喩するところは演出によって変わりもする、そういう余白があるところが、演劇の面白さだなと思う。