仮面福祉会

できることを切り売りしています

トラップを日々かいくぐれない

蒸し鶏を作り掃除をし洗濯をし大河ドラマを見てオリンピックチケットの抽選申し込みをした。

たまたま、子どもと触れ合う機会よりも高齢の人や病気や障害を持つ人と接することのほうが多いせいか、何かと死を想像してしまいがちだ。

足がぱんぱんに浮腫んでいるのを見るとぞっとする。祖母も、祖父も死ぬ直前足が浮腫んでパンのようになっていた。引き続き読む正岡子規は、病牀六尺に「俄かに足の先がブクブクと膨れ上がった」と記した一週間後に死んでしまった。しかし、友達が妊娠中臨月浮腫みがひどかったのは無事出産して済んだので、必ずしもではないのはわかっている。

子規が句を作ったり執筆をしたり植物や果物のことを考えたりして病気のつらさをごまかす一方で、耶蘇教を布教に来た人の話については「余が現在の苦痛余り劇しくしていまだ永遠の幸福を謀るに暇あらず」と言っているのがとても良かったのでメモした。全くレベルの違う話だが例えば、お坊さんから有難い説教を聞いたとしても、暑かったり空腹だったり足が痺れていたりしたら辛いな、ということ以外きっと考えられなくなるものな。
子規はたまたま長い間病人で、病人として最後まで作品を作り続けていたから死に直面した状況がわかるが、他の歴史上の人々も等しく死んでいるのだから、同じように辛い思いをしたんだよなと当たり前のことを思う。

希望がないと生きていけないような気がするが、ないからといって勝手に死ぬわけではない。そもそも希望があると思っているだけで、現実には何もないことがほとんどだ。いだてんだって、オリンピックで金メダルを取れるという希望を持っていたが残せた結果は16位だった。
遠く先を見るからいけないのだ。毎日生きるだけで良い、と自分に言い聞かせるも、本当に何にも起きず何にも残らないのではないかと不安で悲しい。

2020年の夏に何人分のチケットが必要なのかとか、そういうことに直面するたび途方に暮れている。