仮面福祉会

できることを切り売りしています

晴れていたので外で弁当を食べた

連休中に父親からしっかり風邪をうつされ咳が続き背中が痛む。
ようやく止んできたが、この間正岡子規を読んでいたので結核のような気がしてきて、もしそうだったら関係者各位に合わせる顔がないなとか考えていた。前の職場で同僚が罹っていたので結核なわけがないとは言い切れないが、思考の方向が安定の気持ち悪さだ。

連休中に学校から日記の宿題が出されて、どこにも旅行に行けない貧乏人のうちの子には酷だ、というようなぼやきを目にした。そのようなことで気を煩わすのは気の毒なことだが、日記というのは何かイベントがないと書けないようなものだったろうかと全然別方向なことで引っかかっていた。

正岡子規の随筆を読んでいて、これが噂に聞くリアリズムかと今更思い知ってとても良い。
寝床から見える葉鶏頭が好きだとか、リンゴは皮の近くが甘いとか、来客に珍しい菓子を出したいとか、熱が38度あるが大体そんなもんだとか、すごくすごく日常で、その中の、今日は仕事がはかどって嬉しいなとか、あの時食べたイチゴがうまかったなとかいう些細な情緒に感じ入ってしまう。

もちろん子規は特別だけど、日記はどうでもいいことを書くのでいいんじゃないのか。祖父や祖母がつけていた日記も、何時に起きたとか、何を食べたとか、誰と会ったとか、暑いとか寒いとか、ただの記録がほとんどだった。
それでは成立しないということはつまり、子ども同士で日記を見せ合って、書かれた内容の華やかさで、優劣をつける世界があるということなんだろうか。おそろし。

そういえば小学生の時母親から、日記を「今日は」と書き出すな、今日なのはわかっている、としつこく言われていたので未だに躊躇される。そうやってみんな自分で自分の首を絞めているのだ。