仮面福祉会

できることを切り売りしています

三次元を把握できない

鏡にうつった自分が背負う、リュックのでかさにぎょっとした。
昨日、心を無にして買ったのだが、用途に対する容量と機能は正しく、その結果正しくでかい。
そういう当たり前の物理の算段がどうもできない。

こんぴらで見てきた、傾城反魂香という演目の通称「吃又」という場がある。絵師は武士で出世することが名字帯刀を許されることだ、という時代の常識がわからないと終始謎の話だ。しかし正直わかっても謎だ。

この場の一番の見所が、石の手水鉢に描いた絵が反対側に突き抜けるという奇跡を起こすところなのだが、先日の公演ではその絵のことが気になってしかたがなかった。
向こう側から描いた絵がこちらに突き抜けるなら、反転するのではないのかな。見間違いかもしれないのでぼそぼそと言う。
物とか時間の量的なことはおぼつかないし、ふじさんをふじちんと読んだ前科もあるのに、書き間違いや言い間違いには結構ぴっとなってしまうのが恥ずかしい。

吃又は以前仁左衛門の又平で見たときはもうちょっと納得感があったので、人気の演目である所以は役者の好き好きかなという感じがする。

こんぴら歌舞伎の筋書の最終ページに、俳句を投稿する紙が挟まっていた。その生年月日記入欄に「明」という選択肢があって、うおおとなった。そうだなこれを見る人の中には「明」の人がいるかもしれない。
4月もいよいよ後半に入り、ありがとう平成とか、おめでとう令和などの表記を見かけることが増えた。
どうも元号が人格を持ってきたらしい。