仮面福祉会

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型にはまれない後ろめたさ

伯父の葬儀のため仕事は休み。祖母が亡くなった頃に買った喪服を未だに使っている。
暑くなると聞いているが、喪服でその辺りを歩くのがはばかられてトレンチコートを着た。

両親の車に拾ってもらい、東京と横浜の境目の方面に向かう。父の運転が荒く、急加速急ブレーキを繰り返し燃費が悪そう。車内で、母の数珠が切れてバラバラになったのを直していて(破戒僧の所業)ちょっと酔う。70歳も半ばになり、運転が下手になったのだろうか。

車を降りて見るとストッキングのかかとの所が裂けている。がっくりして近くのコンビニに買いに行く。しかし黒いストッキングはなく、80デニールの「発熱」と書いてあるものしか売っていない。在庫感。だったら初めからタイツをはいてくれば良かったと更にがっかりした。

家族葬で、親戚たちと、ごく親しい友達が集まった。
従兄に対してご愁傷様でしたみたいな定型挨拶をするのも変な気がして、しかしその他適切なフレーズも思い付かずあぶあぶする。それからお坊さんの読経が始まり、お焼香。この儀式は何度体験しても割り切れない。段取りをなぞることに抵抗があり過ぎて、思春期みたいにそわそわしてしまう。
そもそも伯父が、親等は近くても思い入れの少ない存在だから、どういう心境になるのか自分でもわからないまま、周りで悲しむ人々の手前、居心地の悪さがずっとある。スンとしたまま終えるのか、と思われたが、お棺に花を詰めるところで泣きそうになった。何に対して反応したのか、多分、お別れをする人々の振る舞いにだろう。母が自身の兄に対して悲しんでいる様子などには、反射的に共感するようにできているんじゃないか。自分も今後、父母や兄弟が先に亡くなったら、同じように悲しむんだろうかと考えていた。

霊柩車を見ると、祖母が亡くなったときに、(亡くなったのとは別の)伯父が車種を選んでいた様子を思い出す。何ごとにも、松竹梅がある。
マイクロバスで移動し、映画に出てくる基地のような、神殿のような火葬場に着いた。ずらずらと列を作って焼き場に移動する途中で見かける他の故人に比べると、伯父はまだ若かったから、我々はかなり大所帯だ。
祖父はギリギリ昭和だったときに、70代前半で亡くなった。仕事で随分無理をしていたし、見るからに不健康だったから、やむを得ないように思われた。その祖父に比べれば、かなり健康に留意して生きてきた一番上の伯父も今回の伯父も、結局祖父と同い年で亡くなったのだった。そういうものかと思う。
骨を拾う儀式は、お焼香などよりは物理的で、自然と神妙になる。兄と、大腿骨と思われるでかい関節部分を骨壺に入れた。係の人が最後に収める時、これが顎の骨です。と見せたのがかなり「顎」で、遺体を見るよりもリアルで、ひえ、となった。

改めて葬式というのは、他のどの儀式よりも変だ。故人を悼み話す内容、悲しみの表し方、宗教に基づいた段取り、全部芝居がかって見える。他の人々も同じように感じているのだろうか。私の魂の未熟さを思い知る。

家に着くと、指定していた場所にパルシステムが届いていた。ミールキットを使ってみたくて、お試しをしたのだった。一人暮らしなのに、実家でずっと見ていたのとまったく同じ箱が置かれ、分厚いカタログが入っているのが、そういうものだとわかっているのに可笑しい。
シンクと冷蔵庫の間のスペースをどう使ったらいいかと悩んでいたが、生協の箱がぴったりはまった。