仮面福祉会

できることを切り売りしています

人権が尊重されていると言えるのか

電車がぎゅうぎゅうである。今日こそ初日という人々でひしめき合っている。

電車を降りた視線の先に、同じコートを来た人を見付け、ひぇ、となり、何とか距離をたもとうと腐心しながら混み合う構内をすり抜けた。第3者に、あの人たち同じだなと気付かれたくない、この羞恥は何からきているのだろう。人の持ち物が良いと思っても、身に付けるものだとまるまる同じにはしにくい。裏方を見られ暴かれるような気がするからかな。

 

昨日声が出なくなっていた後輩と別の子が鼻のどを悪くしてきて、明日は自分かと恐れる。上司は腰を痛めてよぼよぼしている。

初日浮き足立っていたものを見直すが、それでも何か落としている気がして不安。昨日投函した大量の郵便の反応は薄い。まだ着かないのか、静けさが怖い。

夜の打ち合わせをし、9時前に職場を後にする、すっかり通常営業である。

 

帰宅し、大伯母さんが亡くなったと聞く。大正生まれ100歳オーバーなので、ついに、であるが、経緯などはよくわからない。しかしその情報をくれた別の大叔母が落ち込むので気の毒。

母の親世代の人がさすがにぼちぼちいなくなってゆくし、生きていても前のように自由に生活できなくなっている。それは周りの人々の都合によるところが大きく、そういう話を聞くたび、何とか最後まで納得ずくの生活ができないものかと悔しい。ひとりでは危ないからと施設に入らされ、コロナのせいで部屋から出られないとか、黙食とか、もう何年そんなことをやっているのか。高齢者のQOLと比較してどちらを取るべきなのか。私はもういい加減普通に生活したらいいと思うが、現場の人々的にはシフトを変えるリスクのほうがでかいのだろう。

なす術がなくて悔しい。

 

出来心で2年前の春頃の記録を見たら、どうも1日16時間ぐらい職場にいる生活をしていたらしくビビる。忘れるもんだな。