仮面福祉会

できることを切り売りしています

こうなってはしかたない

出窓のところに急須がずっと置いてある。

あれは一体どういうことですかと母に尋ねると、父が割った急須ですということであった。40年近く前に買った急須で、思い入れがあるものを割ってしまったと父が、自身への戒めとしてそこに置いているのだという。

なんだそれ。

普段から食器を扱う母などはあっさりしたもので、割れ物なんだから仕方ないじゃないと言うし私もそう思う。男の人は思い出の物にこだわると高嶋ちさとが言っていて、男女で分けるのはどうなのかと思ったが、そういう傾向がこれなんだろうか。

 

駅までの道の一軒家エリアでは、ここ数年建て替えが続いている。住んでるのかいないのかわからなかったおうちが、この度解体工事に入った。

家の周りがうっそうとしていたのがある日狩り払われ、建物の全貌が見えた。おお。こんな家だったのか。意外に凝った作りの洒落た家で、いいじゃん、と思った次の日には半分壊されていた。そりゃそうだ。

その後も、毎日暑いなか朝から土木の人々が集まってきているのを脇目に歩いている。どうやら東南アジア系の人々が多く、すっかりお世話になっているな。国は一貫して、なくなると困る仕事を軽んじて何も手当てしないで現場に任せきりにして、ふざけたことである。

 

何だか体が重く背中が疲れるので一刻も早く帰って横になりたかった。努めて水をとるようにしてみたがただお手洗いに行きたくなるだけでその行為も疲れる。

 

夜、学徒動員のスペシャルを見る。アラウンド100のおじいさんが何人か出て来て話しているのが大変にしゃんとしていて、百戦錬磨の感に震え上がる。

東條英機の発言が紹介されるたび憎しみを募らせ、こいつは殺さなければ、思ったところで、A級戦犯になったんだったなと思い出した。しかしなにごとも、特定の個人だけに責任があるわけではない。東郷内閣を見たときの絶望感は、覚えがあって恐ろしい。人から与えられる未来を、仕様がないとぼんやり受け入れているとこうなるんだということを、よくよく戒めねばならない。

学徒を戦争に行かせたのは誤りだが、学徒を、ではなく、誰を行かせても誤りであるという話だ。