仮面福祉会

できることを切り売りしています

鬼のツノとパンツの話

誕生日というものに囚われるのをやめられなくてつらい。
何か特別なことをしなければならないのではという気がして毎年あわあわしている。そして大体何も思い付かないのだが、今回はそれで結局ミスドに行った後に豚肉を食べていた。わけがわからない。
1月に全員年を取るシステムの時代にいきたい。

数え、というのを、よく考えたらどこで聞いたんだろうか。とりあえず小三山さんが言っていたような気がする。あとはもう厄年とかそういうのぐらいか。生きた言葉としては、大正生まれの人がいなくなるあたりで消滅するんだろうな。

生まれ年のことになると西暦ではなくて元号だというのと、干支が出てくるのも面白い。そのほうが共通認識としてわかりやすいというのはまずあるけど、元号と干支には何となく風景があるような気がする。

勘三郎さんが「四谷怪談のお岩さんは巳年か思いきや実は子年」と、巳年と子年だとイメージが違うというような主旨のことを言ってた。個人的には子年は特に印象がないが、四谷怪談ではネズミが出てきて人々を陥れたりするのがお岩さんの呪いの一つとして描かれていて怖い。三人吉三で申年というのが暗示的に使われているのも思い出される。

干支なんて1年間全員同じなのに、ひのえうまの例もそうだけど、謎の迷信が当たり前みたいにあるのが、文化だなぁと思う。変な先入観になるからないほうがいいと思うけど、あると文学的にはおもしろみになるから残ってほしいとも思う。

3月になると春仕様にならないといけない気がして焦る。
なければならない気がするの、何なんだ。