仮面福祉会

できることを切り売りしています

やるのは好きだが見るのはそこそこ

書道ができるのだが、大概何の役にも立たない。

月に1回サービス付き高齢者向け住宅で書道教室をやっているのだが、大体1人か2人しか来ないし、かな文字を書きたいとリクエストされる。
書道ができるのだが、漢字しか書けないのだ。

漢字しか書けない書道とは、中国の漢詩とか、昔の文書とか墓とかの一部などを書く。たまたま自分の先生が中国の古い字が専門の人だったので、中国語の文章ばかり意味もわからずせっせと写して割とよく書けた。
大体初めは綺麗な字を書けるようになるために習字を始めるのだから、少なくとも日本語を書きたいというのはごもっともである。自分だって書道展に行けば何が書いてあるのかしらとつい読んでしまい具合が悪くなる。
しかし、先生が書いたいかつくてキレキレの隷書や篆書を見て、何が書いてあるかわからないと避けられてしまうとちょっと哀しい。
実用のために始めることが、気付かないうちに芸術の方向に取り込まれていくのは、考えてみれば不思議だ。

わかりやすいとかや共感できるとかいうことを求めるのはなんなんだろう。
芸術となると、わかりにくいほうが良いような気分もあるようだが、わざとそうしているものはバカバカしい。しかし「わかる」ことが短絡的に「良い」こととも思えない。

書道も歌舞伎もその他伝統芸能など、わかりにくいことで多くの人が敬遠するのがもったいない。わからないけどわかる、わからないけど良い、わからないし面白くない、ということは、あまり普通でないんだろうか。

確かに小筆でかな文字が書けると、少し汎用性があって良いかもなと思わないでもないのだが、ああいう繊細なのはせっかちなので性に合わないというのがある。あと、先生が5年程前に急に亡くなってしまったので、これ以上自分で何かしようという気がないのだ。