改めて19年前の筋書を読んでいたら、勘太郎(勘九郎)が鏡獅子を踊っていて驚愕した。高校生が歌舞伎座で鏡獅子とかまじか。見たかった。
日々の取り返しのつかなさに恐れおののいている。
例に漏れずボヘミアン・ラプソディを興奮したので、クイーンメンバーのインタビューなどを読んでいた。ギターの人だったかが「あの頃は今よりもっと色んな国が違っていた」というようなことを言っていたのが印象的だった。文脈的に良い悪いの話ではなかったが、段々みんな似てくるな…と思う感じはわかる。
文化芸術に限らず、例えば「伝わりやすい定型文」などがすっかり確立され共有されているので、多くの人が同じような文章を書く。こだわりがなければ目立って良いと言われているものを選ぶので、売れそうだとか効率的だとかで整理して均されて似たものが増えていくのは避け難い。
ネットで世界がつながった今となってはむしろそれが自然なことだが、みんなおんなじでつまんないなと思ってしまうので残念だ。
江戸時代が日々遠ざかる。
歌舞伎でいう「時代劇」とは鎌倉時代のことだが、衣装や鬘は江戸仕様でやる。いま、江戸時代を平成仕様でやったら、時代劇とは言われないでしょう。江戸時代と同じありようではいられないんだなということがわかる。歌舞伎と現実の時間的な解離が止められない中で、生きた芝居にし続けるにはどうしたら良いのかというのは、多くの役者などがぶつかって試行錯誤し続けているテーマだ。
何か光明がございますでしょうか。
この辺りで1度時間止まっといてくれないかな。