仮面福祉会

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大変そうでも役に立てる感謝される

中学校で福祉の授業をやった時のアンケートをずっと見ていたら、福祉の仕事は大変そう、でも役に立っててすごい、感謝されていい、をループしてつまらないなと思ってしまった。空気読んで正解の答え書いてつまんないとか言われて、子どもは気の毒だな。

先日、映画の「こんな夜更けにバナナかよ」を見てきた。仕事がら見ておいた方がいいかなという義務感半分だったのだけど、思いのほか良かったのでもっと早く見て色んな人にお勧めすればよかった。

最近、哀しいとか辛いとか考えさせる系の映画はしんどいから避けているので、正直見るのあんまり気が進まなかったんだけど、全然哀しくも辛くもなく引きずらずに済んだのが、最もすごいと思ったところ。
印象的だったのが、一人のボランティアの大学生の「鹿野さんは可哀そうに見えないからボランティアをする必要がないと思うので辞める」というようなセリフ。脚色してはいるだろうけど、本当にそんなこと考える人がいるのかしら。いるんだろうな。何ならそれが普通なのかな。
ボランティアすることの動機は何だっていいっちゃいいんだけど、「気の毒だから助けてあげたい」ではなくて、「俺なんかで良けりゃあ手を貸しやしょう」になったらいいなぁと思う。だから、劇中のボランティアさんたちに自己犠牲とか奉仕の匂いが全然しないのが良かった。映画だから現実よりもシンプルになってはいるだろうけども、生きたいように生きることに命をかける鹿野さんの希望を叶えたい、という純粋な行動動機に見えた。

そういう意味で、広義ではボヘミアン・ラプソディに似てるなと思ったんだけど、さすがにそれは、だめですか。

福祉は確かに困っている人を助けるんだけど、困っているように見える人が可哀そうだから助けるということではない。社会に生きる全員が、生きたいように生きる権利があって、社会的障壁によってそれができない人がいるなら、その障壁をなくさないといけないのだ。奉仕とか同情とか見返りを求めてとかではなくて、それが当たり前で、したいことで、日常と地続きになるといい。

中学生がこの映画を見たら、どんな感想を書くのかな。鹿野さんはすごいと思った。こういう人がいたら助けてあげたい。とかかしら。まぁ全然悪くはないか、それで。
伝わることもあるかもしれないが、伝わらないのも、立ってるところが違い過ぎるからしょうがない。とはいえ、なにか伝え方があるんではないかと期待してしまって残念だ。